より良い意思決定2差別は否定されるべきものか?差別についての一般的な話

差別の話なんだけど。
私は善悪とかそういう観点からではなく、差別行動が意思決定として良い結果をもたらすのかという観点から話してみる。

差別とは

ごちゃごちゃするとまずいので、ここでの差別をまず定義する。
まとめれば、ステレオタイプに基づく行動だ。したら、ステレオタイプって何よって話だけど「ある集団の人々(人種とか民族とかセックスとか嗜好)に対して特性を関連づけて過剰に一般化すること」だと思う。
例えば「イタリア人は掏りだ」「イタリア人は明るい」みたいな話だ。
こういうステレオタイプ的知識に基づいた行動を差別と呼ぶ。

良い決定とは

ここでは、良い(満足できる)結果を得られる決定を良い決定とする。まあつまり、目的状態があって今の状態がそれと乖離しているとするとしようや。で、目的状態に近付くためにはどういう行動をとるかを決定しなきゃならない。
色々方法がある中で良い決定というのは、目的状態に一番近付けるような決定ということになる.じゃあ,どうするかと言えば,アルゴリズム(規範的,システマティック)による決定と言うことになるだろう.
しかし,我々の生活における意思決定というのは大体がアルゴリズム的に解くには複雑すぎるし,我々自身が忙しくまたバカだ.だから,人はヒューリスティックと呼ばれるアルゴリズム的な解に近い結果を出せる決定方法を用いる.まあ,1番近づけなくてもそこそこ近づける方法と言うことだ(id: andalusia さんの「もし仮にそんな人(ヒューリスティックな手法を放棄した人)がいたとしたら、無知で無能でクズ。アホでバカ。低脳ワーキングプアだと私は思います。」にはすごく同意).

ヒューリスティックとしてのステレオタイプ

差別の元になるステレオタイプヒューリスティックの一部だ.人の個別情報ではなく,所属する集団が何かによってその人がどんな人かを想定するというのは,アルゴリズムではないから.実際,我々はステレオタイプなしにはやっていけない.何故か,それは世の中には知らない人が多すぎるからだ.個人情報を知っていればそれに基づいて決定ができるが,知らなければ代替案として他の決定材料を使わなければならないからだ.


「例えば,あなたは札幌の街を歩いていて迷ったとする.誰かに道を聞かねばならない.目の前には守屋前防衛事務次官似のおっさんが1人でこちらに向かって歩いている.あなたは何語で話しかけますか?(とりあえず,あなたは日本語英語中国語ができる)」
わたしなら,日本語で話しかける.日本の街を歩いているアジア人的な顔をした男性は日本語を話すだろうというステレオタイプを使うことによって.このとき,ステレオタイプなしでどうやって決定するのがよいのか?


元々の話からすれば,非常に極端な例を出した.しかし,私が言いたいことは「ステレオタイプというのはそもそも人が意思決定するためには必要なものであり,そのような思考法自体を否定し,なくそうというのは無理な話だ」ということだ.「命を奪うことは悪いことだ」といって何も食べずにいれば死んでしまう.

追記

ヒューリスティクスの適用と社会 - novtan別館
ヒューリスティクスと差別 - raurublock on Hatena
この記事は上の記事読んで考えた.
下の人は凄い人でヒューリスティック少ない人だそうだ.
ステレオタイプに限った話でもたいしたもんだとおもう.正直想像がつかない.