続・席に座らない子供を汽車に乗せるな

前回の記事書いた後につらつら思ったことなどとりとめもなく

確率について

前回,「追突事故リスクを低く見てるよなぁと思う.」と書いたけど,単に私が自分の経験した一事例によってリスクを高く見積もりすぎているのかもしれない.この可能性は否定できない.*1
なので,発達段階ごとの立ったままの乗車スタイルの安全性についての研究がJRなんかで行われてないかググってみたが見つからなかった.ご存じの方がいれば教えていただけたらと思う.

教育について

タイトルとは反対であるが,「子供を席に座らせるべきだ」というのは非常におかしいと思う.教育の観点からは.しかしそれは,公共マナーなどではない.「強い者は弱者に席を譲る」というマナーであれば,より強い者(大人)が席を譲るべきであり,弱者同士で分不相応な(ここが大事,分相応なマナーはさせるべきだと思ってる)譲り合いをさせることで学習できるとは思えないからだ.観察学習は出来ないと思っているのだろうか?*2考えたのは運動の発達の観点からだ.大きくなって汽車に立って乗るということを可能にするためには,それ以前に立って乗る経験をしなければならないのではないかと思ったのだ.これから先全ての乗客が座れる汽車になるとは思えないので,やっとく必要はあるだろうとは思う.発達段階がどの程度かとかの専門的知識は持っていないので,いくつぐらいからとは言えないが.
では,なぜ私が「子供を席に座らせるべきだ」というかというと,私がイタイ思いをしたくないからだ.非常に子供じみており,利己的である.良識ある大人としては子供の成長のためには痛みもコストとして捉えるべきかもしれないが,イタイのは嫌なんだ.

女性として

よくよく考えてみれば,大人になってからも私自身席を譲られる.老人でもなく妊婦でもないが.どういう場合かというと,男性と一緒に乗ったときだ.彼らは大抵私(女)に席を譲る(他に老人などがいれば彼らに譲るが).そうゆうもんかと思って私も座る.納得した理由を思い出すと,私は「俺とおまえ肉体的弱者はどっち?」という比較を行っており「私の方が弱者だ」と思っていた.
…しかし,もし大人が座り子供が立つのは当然などと思うのが常識だとしたら…私はどんだけ弱く思われてたのだろうか.切なくなった.


本当にとりとめなくなった.
最後に,「子供には人権がない」のか? - PSJ渋谷研究所X(臨時避難所)ブコメでも書いたが,彼女が子供に対して「「年齢に応じて社会適応力を養うこと」を意識してるけど肉体的・精神的発達段階を知らなさすぎ」た結果としてろくな根拠も提示できてないのに「立つべき」と考えたのであれば,彼女は子供のことを思う非常に良識ある大人だと思う.実力が伴っていないだけで.このブログのid:kamezoも彼女とは立場こそ違えど子供のことを思う非常に良識ある大人だと思う.それに比べて私のは子供の成長なんて何も考えて無くて単なる我が侭だなと思った.反省はしないが.

*1:この「わたしの経験」の過度な一般化はトンデモでよくある手だ.トンデモ具合から言えば子供を立たせる大人(や江川さん)と私は互角な勝負である.つまり,前回の私の記事は主張としてはあまりに酷く,かつ不毛である.

*2:Togetter のあの議論で運賃の話題が出たのは大人側に譲れと言わせないためではないかと意地悪いことを考えた.「老人こそ弱者であり彼らに席を譲るのは,弱者以外でよりコストを払っていない者だ」かと.